言葉にならないもの、あるいは

仕事では、ひたすら言葉と対峙しています。

書かれている内容が正しいか、読み手に伝わるように書かれているかをチェックするのが仕事です。

 

本を読むのが好きで、ご飯中や通学中も本を読もうとして、

度々行儀が悪いと怒られました。

さすがにご飯を食べながらや歩きながらの読書はしなくなりましたが、

隙あらば読まんとしていることは多いし、今も読書は好きです。

ウェブサイトのインタビュー記事なども好きなので、

結局、すごく文字を追っています。

 

演劇部に所属していた中高時代、

はたと「言葉の裏にある感情ってなんだ」と衝撃を受けたことがあるくらい、

「言葉」をそのままに受け止めていました。

(セリフの裏側の感情に思い至っていなかった。

 「嫌い」っていう言葉を好きだからこそ言ってしまう、

 といった心理を読めなかった。)

 

大学生になっても「言葉に縛られすぎだよ」と諭されたことがあります。

違う意見のひとと出会ったときしつこいくらいに、

その言葉のニュアンスを言葉で確かめようとすることが今もあります。

ひとは言葉だけでコミュニケーションしていないというのは頭ではわかっていますが、

その言外のニュアンスをどれほど汲み取れているかというとかなりあやしい。

むしろ汲み取れないと思っているからこそ、

言外のニュアンスを汲み取ろうとして普段から緊張もしているし、

一人相撲してしまうこともままあります。

そして、結局、言葉で確認してしまいます。

 

それくらい、

言葉に比重を置いてしまう生き方及びコミュニケーションの取り方をしていますが、

言葉から離れたい瞬間というのももちろんあります。

 

たとえば先週、桜の花の展示を観に、喫茶店に行きました。

実は私は少し勘違いをしていて、たどり着いた展示は真に目指していたのとは違うものでした。

しかし。

私は、その桜をぼーっと眺めたかった。

天井の高い、古い木の建物の真ん中に、

根から掘り出された桜の木が一本咲き誇っていて、

ところどころにキャンドルが灯されていました。

夕方にはまだ早い昼下がりでしたが、室内は適度に薄暗く、

その灯りはぽっと心を灯してくれるように感じられました。

喫茶を利用しなくてもよいと教えてもらいましたが、

これは、じっくり眺めねば、と

甘い紅茶の香りにも誘われて、お金もないのに、喫茶の席につきました。

 

紅茶も、頼んだケーキも夢のように美味しかった。

途中、相席した女性二人連れとのたわいない会話も、

なんだか特別な秘密を共有しているようで楽しかった。

それ以上に、桜を眺めてぼーっとしていることが心地よくてたまらなかった。

ただ、桜の木とキャンドルを様々な角度から、自席から、眺めていました。

あの時、私の中に、言葉はなかったように思います。

 

たまに、こういった言葉のない瞬間があります。

 

大抵は、気持ちも体もゆるんでいて、そして、何かに目を奪われている。

 

このときの気持ちは簡単に言葉にしなくていいんだと思います。

今日のように、後々その時間に漂ったことを書きたくなったときに書けば。

・・・でも、結局書きたくなるんだとしたら、因果なものだな。

 

最近復活した宇多田ヒカル

私は彼女のファンなのですが、『Automatic』の

 

 でも言葉を失った瞬間が 一番幸せ

 

というフレーズは好きなフレーズの一つです。

このフレーズが指す「瞬間」は恋人同士の間の瞬間で、

もっと違う時間かもしれませんが、

言葉を失う瞬間の至福を味わうために生きてるんだと、まま思います。

 

もっと言葉を失う瞬間に出会いたい。

そして、言葉を失った瞬間のことも、もっと適確に書けるようになりたい。

よくどおしく、今日も生きています。