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パソコンデスクに花(はきだめに鶴、のリズムで)

花屋の店先で、かなりの確率で花を買いたくなる。

しかし、昼から夜にかけての仕事なので、

花屋が真っ当に開いている時間は大抵通勤中であり、

冷暖房が直撃の席にわざわざ花を持っていくのもしのばれる。

花をいためつけるようなものだ、と花に伸びた手が引っ込む。

 

それってすごくもったいないことだなと思う。

花を買って、それを眺めて心地よく過ごす可能性を消すことになるから。

でも、実際買った花がすぐに傷んでしまっても悲しみに拍車をかけるので、

やっぱり明日も花は買っていかない。

 

花は買っていかないのだ。

あーあ。

 

花を買って眺めるくらいの余裕が欲しい。

ペットボトルを花瓶代わりに、

明日こそは花を買っていこうか。

これと思った花一本。

一人飾って悦にいろうか。

 

ストレスとフラワーアレンジメント

フラワーアレンジメントには、

ストレス発散をしに行くつもりでした。

テーマは季節の花のブーケ。

 

手先が器用でない私も、花の美しさと先生の技術の一部を借りることで、

美しいブーケを作る。

その想像行為に快を感じ、ひいてはストレスを発散できるだろう。

これが当初の目論見でした。

 

幼稚園で色水づくりにはまり、

小学校の頃は洋服のデザインを考えるのにはまり、

(同じようなデザインばかり描いてました)

かといって絵が上手なわけでもなく手先が器用なわけではない、

高校は音楽選択の私。

 

作るのが好きな気持ちはねじれたまま、奥に追いやられていたのですが、

その気持ちを再び引っ張り出したのは、箱庭でした。

箱庭療法

自分の気持ちがわからなくなったひと、言葉にできないひとの、

深層心理を知るための精神療法の一つです。

(この言い方も下の描写も極めて大雑把なので、

 気になる人は最相葉月さんの『セラピスト』を読むのがオススメです)

 

箱庭療法は、ミニチュアの家具とか造花とかフィギュアとか石とか、

あらかじめそこに用意されているものを箱の中に配置するというものなので、

私の手先の器用さは関係なし。

まあイメージ通りのものがないと少し残念ですが、

その場では本当はこういうイメージなどど言葉で補足しました。

 

そこに展開される私の理想の世界。

自由にどう作ってもいい。

「日常」も「常識」も「決まり」もない世界。

この興奮は何にも代えがたいものでした。

 

しかし、箱庭から離れる時期がやってきます。

 

あの興奮が手に入らない・・・。

 

私はコラージュに手を出しました。

雑誌を切り抜いたり、新聞を切り抜いたりして、

一枚の紙の上に貼り付けていくものです。

これも、私の手先は関係なし。

1週間続けました。

 

そうすると、手元のもう切り抜いていい雑誌のストックがなくなりました。

これではお手上げです。

素材がないと作れない・・・。

 

そんな私が発見したのがフラワーアレンジメントでした。

 

どこにどの花を、どんな高さで、どんな向きで配置するか。

しかし、これはアレンジメントだからこそ、なのです。

ブーケでは(素人には)できることの幅が少ない。

 

結局のところ、

1:素材がある

2:自由度が高い配置

 

この二つがないと私にとって、

ストレスの発散にならないのだと悟りました。

 

ただ、同じ花材があって、同じようにアドバイスを受けて作っても、

できあがるものが全然違うというのは面白いです。

 

ちなみに私の作ったブーケは、

かわいい球形を描くことはなく、

花がその美しさを最大限に発揮することもなく、

緑が自由にぴょんぴょんと飛び跳ね、下手をすると花々より目立つという、

野放図な仕上がりでした。

ほころんだ世界を

フラワーアレンジメントの教室に行ってきました。

今回は季節の花のブーケ。

植物を育てたり、部屋に花を飾るのを欠かさないなんてことはけしてないのですが、

漠然と花が好きです。

 

梅の蕾がふくらみほころんでいるのに気づく、とか

暗い夜道に漂う金木犀の香りに秋を感じる、というのも好きなんですが、

もっと好きなのは、花屋で花を買うことです。

何てことのない日に通りがかった花屋に寄り、

直感で選んだ一輪の花や小さな花束を、行く先で会う人や自分にプレゼントする。

就活で行った広尾の高級花屋で大輪の真っ赤なダリアを買ったこともありました。

 

これは、ささやかな破壊衝動を満たします。

自然に咲く野の花ではなくて装飾性をたたえて花屋を彩る花。

そんな花を持って歩くこと、贈ること。

それは「日常」への抵抗であり、「ケ」を「ハレ」に変えようという欲望の発露。

 

花を携えて、少しほころんだ世界を歩く。

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泳ぐ

梅雨は湿気るし冷えたり暑かったりで体温調節しにくいし
どうしても体調を崩しやすい。
そのつもりで過ごすのも、一つの養生って言われてるのですが、
やっぱりバランス取りにくく。
早い話が今週は食べ過ぎです。

食べ過ぎだー。
胃のあたりが重い、のに、食べちゃったり。
控えてた甘いものに手が伸びたり。

6月11日深夜の0時半になろうとする今、
あー食べ過ぎだーと食べ物が消化しろと重くのしかかる胃を抱えているわけです。

そんなリビングはテレビを消してあって窓は開けてカーテン越しは梅雨の夜。
梅雨の夜を泳いでいるような気分になる湿気、
実は嫌いではないのです。

まあでも食べ過ぎだ。

体が欲するものを、欲する分だけ食べる。
これがそんなに難しいことだと、飽食の時代に生きるわたしは知らなかった。

ぐるぐるとループしながら夜を深めていきそうなので、
一旦この辺にして寝てみるのもありだ。
胃薬を飲んで。

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乖離

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なんのひねりもないタイトルです。


ことばとからだが離れている。


梅雨のせいにして、ゆるゆるとしてみる。


梅雨じたいはすきではないけれど、

梅雨時のしっとりとした空気と明るい緑の葉の組み合わせは

やはりこの時期特有のものだし、

色とりどりの紫陽花やアヤメなど、この時期だからこそ映える花もある。

そう思うと、雨の中をあるく辛さが少し減ります。

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花とご飯と本と

4月23日はSant Jordiというと初めて知りました。

これは、スペイン・カタルーニャ地方の祝祭日で、

女性に花を、男性に本を贈る日だそうです。

花は美と教養、本は愛と知性の象徴とのことですが、

女性にだって男性にだって、花でも本でも贈ったらいいじゃない、

だってもどっちも好きなんだもの!

と花も本も好きな私は気持ちが高まり、自分のために花も本も買いました。

贈る要素・・・・・・。

本は沖縄で買った島尾ミホさんつながりでしまおまほさんの著書など。

花は、サーモンピンクの小さなばら(名前書いてあったのに忘れた)数輪を中心に、

グリーンとニゲラという青い花を合わせてもらいました。

この薄い青がサーモンピンクと合わさって実に活きる。

双方がよく見える組み合わせってこういうことだなと再確認する瞬間でした。

自分で選び始めても、なかなか花束として整わず、

アドバイスいただいたからこその発見でした。

そして、包んでいただいた花を持って、歩き、電車に乗り、バスに乗り。

花を持って街を歩くのは骨の折れる部分もあるし、

長時間になると花がかわいそうなのですが、

少しの間なら、街の空気を変えるように歩けるのが楽しいです。

たまに、一輪だけや数本だけ、花を買います。

用事の途中の思いつきです。

それだけで、ぐっと胸が高鳴るのだから不思議です。

 

そんな花を抱えて、

「きょう、何をどうやって食べますか」というタイトルのトークイベントにも

行ってきました。

会場はアートエリアB1。

今は「サーチプロジェクトvol.5 ニュー”コロニー/アイランド”2 災害にまつわる所作と対話」という展覧会の真っ最中です。

このトークでは、会場に「きょう、何をどうやって食べますか」ということばから、

理想の食や食にまつわるエピソードを語る時間がありました。

あの場だからこそ語られたであろう話だったので詳細は書きません。

が、個々のエピソードには、力強さや切実さがありました。

 

「食べなければ生きていけない」

しかし、

「食べられたらいいわけではない」

 

栄養素、食卓を誰と囲むか、食事の時間帯、調理方法、自炊か外食か、食材の産地、食文化・・・。

ひとくちに食といっても、切り口は膨大にありますが、

個人的には「出来立てのものを食べる」ことの幸福を最近しみじみと感じました。

昼から晩にかけての仕事をしていると、

朝昼兼用の簡単なものを食べてから仕事に出かけ、

晩御飯はお弁当か仕事場の近くで調達したご飯。

こういうときの食事は、どこか「調達」といった響きを持っています。

ゆっくりできたてのものを味わうといった余裕はありません。

 

しかし、同じ唐揚げひとつとっても、出来立てがいかに美味しいか。

店に入っても写真を撮るより出来立てを食べたい派なのですが、

それでも日々に追われて出来立ての美味しさを忘れていました。

職場に共同キッチンがあれば、出来立てのものを食べれらるのに、と

想像しています。

ご飯を食べるというのは生活の基本なのだから、

仕事に押しつぶされてしまうのはなんだかなあと思います。

 

花、ご飯、本。

日々を過ごしていく上で、大事にしている3つのことについて、

思いを馳せる1日になりました。

 

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幽霊は本心を語るか

やなぎもとゆうり、という名前にしている。

本名ではない。

 

これは「柳の下の幽霊」の下手なパロディーで、

幽霊から言葉を託されるように書きたい、と思ったからこの名前にした。

 

なぜ幽霊か。

 

それは、幽霊の姿を借りてなら本心が書けるのではないかと思ったから。

わたしの話には前置きが長い。

「反対意見もあると思うが」という趣旨の枕をつい置いてしまう。

それは、怖いからだ。

自分の言葉尻を捉えて反対し、揚げ足を取り、曲解する

監視者が想定されている話し方。

 

人と意見が違うことも、

お前は間違っていると糾弾されることも、

浅い見識でものを話して浅薄さを見破られ、自分の浅薄さを自覚させられることも、

怖いからだ。

 

人の意図するニュアンスを言動から読み取るのは苦手だ。

枠にはまれと言われることに強い拒否感を覚える。

自由に時間を使いたい。その方が、創造的な効果を生めるから。

そういった自分のことを、開き直りきれていない。

 

『かなわない』(植本一子、タバブックス)というエッセイ集がある。

ブログをまとめたものと書き下ろしからなる。

彼女はカメラマンで、年の離れたラッパーの夫と、

保育所に通うか通わないかの幼い娘が二人。

そして、恋人が一人。

 

保育ママに子どもを預ける。

仕事と子育てを夫と互いに配慮しあってこなす。

夫の無駄遣いに腹をたてる。

恋人がいるから離婚して欲しいと切り出して相手にもされなかった話や、

子どもに向き合うべきではと思うけれど向き合えない心情を、

素直に、嘘なく描く。

嘘がないことを心がけたというその筆致は、

彼女のある期間の生活の断片を鋭く描き出す。

赤裸々だが、スキャンダラスではない。

子を産んだから、いつも子どもに向き合えるわけではない。

夫がいるから、他の相手と恋に落ちないわけではない。

不安、苛立ち、戸惑い、嬉しさ、ずるさ、困惑、寂しさ、迷い。

このエッセイに綴られているのは、間違いようもなく筆者の生活と心情であるのだが、

このエッセイを読んでその素直さ、嘘のなさに胸が打たれるのは、

私が自分に嘘をついて生きているからだ。

負の感情を押さえつけ、ため息はつかなかったことにする。

「あるべきでない」喜びを、醜さを、貧しさを、

胸のずっと奥に押しやって蓋をしていたことにも気付かなかった。

 

この本を読んで、私の今年の目標は「素直であること」になった。

それでもまだ、前置きはなくならないけれど、

自覚があるというところから始める。

そのために、文章を書く。

 

 

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