幽霊は本心を語るか

やなぎもとゆうり、という名前にしている。

本名ではない。

 

これは「柳の下の幽霊」の下手なパロディーで、

幽霊から言葉を託されるように書きたい、と思ったからこの名前にした。

 

なぜ幽霊か。

 

それは、幽霊の姿を借りてなら本心が書けるのではないかと思ったから。

わたしの話には前置きが長い。

「反対意見もあると思うが」という趣旨の枕をつい置いてしまう。

それは、怖いからだ。

自分の言葉尻を捉えて反対し、揚げ足を取り、曲解する

監視者が想定されている話し方。

 

人と意見が違うことも、

お前は間違っていると糾弾されることも、

浅い見識でものを話して浅薄さを見破られ、自分の浅薄さを自覚させられることも、

怖いからだ。

 

人の意図するニュアンスを言動から読み取るのは苦手だ。

枠にはまれと言われることに強い拒否感を覚える。

自由に時間を使いたい。その方が、創造的な効果を生めるから。

そういった自分のことを、開き直りきれていない。

 

『かなわない』(植本一子、タバブックス)というエッセイ集がある。

ブログをまとめたものと書き下ろしからなる。

彼女はカメラマンで、年の離れたラッパーの夫と、

保育所に通うか通わないかの幼い娘が二人。

そして、恋人が一人。

 

保育ママに子どもを預ける。

仕事と子育てを夫と互いに配慮しあってこなす。

夫の無駄遣いに腹をたてる。

恋人がいるから離婚して欲しいと切り出して相手にもされなかった話や、

子どもに向き合うべきではと思うけれど向き合えない心情を、

素直に、嘘なく描く。

嘘がないことを心がけたというその筆致は、

彼女のある期間の生活の断片を鋭く描き出す。

赤裸々だが、スキャンダラスではない。

子を産んだから、いつも子どもに向き合えるわけではない。

夫がいるから、他の相手と恋に落ちないわけではない。

不安、苛立ち、戸惑い、嬉しさ、ずるさ、困惑、寂しさ、迷い。

このエッセイに綴られているのは、間違いようもなく筆者の生活と心情であるのだが、

このエッセイを読んでその素直さ、嘘のなさに胸が打たれるのは、

私が自分に嘘をついて生きているからだ。

負の感情を押さえつけ、ため息はつかなかったことにする。

「あるべきでない」喜びを、醜さを、貧しさを、

胸のずっと奥に押しやって蓋をしていたことにも気付かなかった。

 

この本を読んで、私の今年の目標は「素直であること」になった。

それでもまだ、前置きはなくならないけれど、

自覚があるというところから始める。

そのために、文章を書く。

 

 

あらゆるところで起こる比例

誰にどうぶつけたらいいかわからない感情を、

メールもラインもツイッターもない時代の人たちはどう消化していたのだろう。

ありきたりな物言いだけど、

携帯を見、メールやラインの宛先を探し、

個々の顔を思い浮かべては、

仕事忙しいよな、平日の晩だしな、今忙しいはずだし、と逡巡し、

結局携帯電話を離しては、ことばになれなかったモヤモヤを胸の内にかってしまう。

日記やメモも書いてみるものの、そのときことばにしたかったモヤモヤは、

不思議とうまくことばにならずに、

書かれたことばには何の色も重みも味もないつんつるてんなものばかり。

 

谷川俊太郎の『20億光年の孤独』を思い浮かべるのがならい。

みんな、孤独な夜を過ごしたんだ、と自分に言い聞かせる。

 

「繋がれた」ように思ってしまうからタチが悪いのだ。

メールや通信アプリなりがなければ。

怖い親の出てくる電話くらいしかなければ。

でも何回かに1回は送るメッセージ、何回かに1回はかける電話に

光を見いだすこともある。

 

孤独、孤独、孤独。

でも、きっとその孤独をどう乗り越えるかを考えながらしか、

生きていけない。

マイナスに考えすぎる前に寝る。

案外、これが最強の答えだったり・・・するのかな。

 

モヤモヤしたことの中身を書きたかったのに、

「流れ」に引っ張られると、文章は思ってもみなかった方に向かう。

モヤモヤに少しは構わないと、あとで化け物になって出てくるので、

少しモヤモヤに構って、寝る。

泳げない者は水面の遠さを覚えている

息がつまる。

息ができなくなっていることに気づく。


感覚的に捉えたことば、ハッと惹かれたことば、疲れたときのため息のようなことば。

漏れ出ようとすることばが行場を失う。


立派なことが言いたいわけでもない。

綺麗な写真があるわけでもない。

人を明るくするわけでもない。


そんなことばは、

書くためのプラットフォームがありふれているように見える今ですら、

行場をなくす。


このために、ブログを開いたのだ。

深呼吸をするために。



言葉にならないもの、あるいは

仕事では、ひたすら言葉と対峙しています。

書かれている内容が正しいか、読み手に伝わるように書かれているかをチェックするのが仕事です。

 

本を読むのが好きで、ご飯中や通学中も本を読もうとして、

度々行儀が悪いと怒られました。

さすがにご飯を食べながらや歩きながらの読書はしなくなりましたが、

隙あらば読まんとしていることは多いし、今も読書は好きです。

ウェブサイトのインタビュー記事なども好きなので、

結局、すごく文字を追っています。

 

演劇部に所属していた中高時代、

はたと「言葉の裏にある感情ってなんだ」と衝撃を受けたことがあるくらい、

「言葉」をそのままに受け止めていました。

(セリフの裏側の感情に思い至っていなかった。

 「嫌い」っていう言葉を好きだからこそ言ってしまう、

 といった心理を読めなかった。)

 

大学生になっても「言葉に縛られすぎだよ」と諭されたことがあります。

違う意見のひとと出会ったときしつこいくらいに、

その言葉のニュアンスを言葉で確かめようとすることが今もあります。

ひとは言葉だけでコミュニケーションしていないというのは頭ではわかっていますが、

その言外のニュアンスをどれほど汲み取れているかというとかなりあやしい。

むしろ汲み取れないと思っているからこそ、

言外のニュアンスを汲み取ろうとして普段から緊張もしているし、

一人相撲してしまうこともままあります。

そして、結局、言葉で確認してしまいます。

 

それくらい、

言葉に比重を置いてしまう生き方及びコミュニケーションの取り方をしていますが、

言葉から離れたい瞬間というのももちろんあります。

 

たとえば先週、桜の花の展示を観に、喫茶店に行きました。

実は私は少し勘違いをしていて、たどり着いた展示は真に目指していたのとは違うものでした。

しかし。

私は、その桜をぼーっと眺めたかった。

天井の高い、古い木の建物の真ん中に、

根から掘り出された桜の木が一本咲き誇っていて、

ところどころにキャンドルが灯されていました。

夕方にはまだ早い昼下がりでしたが、室内は適度に薄暗く、

その灯りはぽっと心を灯してくれるように感じられました。

喫茶を利用しなくてもよいと教えてもらいましたが、

これは、じっくり眺めねば、と

甘い紅茶の香りにも誘われて、お金もないのに、喫茶の席につきました。

 

紅茶も、頼んだケーキも夢のように美味しかった。

途中、相席した女性二人連れとのたわいない会話も、

なんだか特別な秘密を共有しているようで楽しかった。

それ以上に、桜を眺めてぼーっとしていることが心地よくてたまらなかった。

ただ、桜の木とキャンドルを様々な角度から、自席から、眺めていました。

あの時、私の中に、言葉はなかったように思います。

 

たまに、こういった言葉のない瞬間があります。

 

大抵は、気持ちも体もゆるんでいて、そして、何かに目を奪われている。

 

このときの気持ちは簡単に言葉にしなくていいんだと思います。

今日のように、後々その時間に漂ったことを書きたくなったときに書けば。

・・・でも、結局書きたくなるんだとしたら、因果なものだな。

 

最近復活した宇多田ヒカル

私は彼女のファンなのですが、『Automatic』の

 

 でも言葉を失った瞬間が 一番幸せ

 

というフレーズは好きなフレーズの一つです。

このフレーズが指す「瞬間」は恋人同士の間の瞬間で、

もっと違う時間かもしれませんが、

言葉を失う瞬間の至福を味わうために生きてるんだと、まま思います。

 

もっと言葉を失う瞬間に出会いたい。

そして、言葉を失った瞬間のことも、もっと適確に書けるようになりたい。

よくどおしく、今日も生きています。

ぽかりぽかりと浮かぶ黄色

旅をしました。

二泊三日。

行き先は、沖縄。


バスに乗って、那覇から中部くらいの広い範囲を移動したのですが、

先々で黄色い花がぽかりぽかりと浮かんで見えます。


枝の細い木に、小さなラッパ型の黄色い花が複数付いている。

葉は見えません。

普段見ている花で近いのは、木蓮か。

しかし、花びらはもう少し薄くてひらひらと見える。

黄色い色はレンギョウの花のよう。


那覇でも普天間でも辺野古でも、黄色い花が、ぽかりぽかり。


沖縄の春先の花なんだろうな。


きっと、検索をかけたらすぐに名前がわかってしまう。

でも、まだわからなくていい。

旅の思い出と、3月下旬に差し掛かる頃の沖縄の日差し、朝晩の温度差、湿度。

そんな、肌や目や気持ちで感じたあれこれとともに、

もう少し胸の内に浮かべておきたいと思います。

ずれていく

書き始めて思うことをわあっと書きます。

 

1・書いているうちに思い出す

 

一つのエピソードのうち10/100くらいの記憶から書き始めると、

70/100くらいを思い出す。

 

 

2・書いているうちに話がずれていく

 

増えた50/100の記憶が違う意味や文脈をひっぱってくるのか、

勘だけで書き始めると言いたいことがずれ始める。

そうして、何かをそぎ落とし、何かを付け足し、

自分は何か言いたかったのかの落とし所を探す。

 

これは、論文を書くときにはまったく評価されない方法です。

少なくとも、私のいた研究室では、

ものをみてから問い・主題を立て、材料を揃え、構成を決めてから書き始めるのがよしとされます。

 

しかし、何が言いたくなったかわからなくなったひとは、

まず書いたらいいと思います。

 

文章が書けなくなった時期があります。

何を書いても、

間違いではないか、

見識が足りないのではないか、

何もいっていないのと同じではないか、

そう考えて、書いては消しを繰り返すうちに、

とうとう何も書けなくなりました。

そんなことは初めてでした。

 

だからこそ、書いているうちに何かが繋がって広がる今の状況が、新鮮です。

もっと、書きたいと思う。

落とし所を探しながら、どうなるかわからない言葉を追って楽しんでいます。